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は じ め に
人間は、どのように生きようと、それこそ自由ですが、でも、どうせのことなら、少しでもねうちのある生活がしたいと思います。どろぼうをして遊んで暮らすよりも、多少苦労をしてでも、まともな生活がしたいし、同じ家に住むのなら、庭の一つもある優雅な所に住みたいと思うのが当然です。
そんな中で、昔の祖師たちは、一枚の破れ衣に寒さをしのぎ、世間の一切の楽しみを避けて、きびしい修業の生活にあけくれました。一体、何のためだったのでしょうか。それはきっと、人生の中に深くひそんでいる本当の意味を、真剣に追求なさったからに外ならないと思うのです。そして、その求め方が、真剣というよりは、もう、死にものぐるいの、命がけのものだったからこそ、祖師たちが「これこそ真実だ」とつかまれた真理が、(たとえ今の私たちに理解できなくても…)きっと本当のことにちがいないと信ずることができるのです。 私たちは、誰しも幸せに生きたいと願いますが、本当の意味での幸福をつかむためには、どうしても、こうした祖師たちの示されたことばに耳を傾けなくてはなりません。そこで、自分の力が足りないことは充分承知の上で、これら祖師たちの示された道……つまり仏道を、少しでも皆さま方の身近なものにしたいと願って、このリーフレットを作ることにしました。毎週一枚の割で、皆様のお手もとへお届けできたら……と思っています。仏教に少しでも関心のある方の、ご批判をお待ちしています。
深 信 因 果
おおよそ因果の道理、歴然として私なし、造悪のものは堕し、修警のものはのぼる。毫釐もたがわざるなり。 (大体、因果の法則というものは、実にはっきりしていて、少しのえこひいきもないものである。悪いことをした者は、だんだん運命が悪くなっていくし、善いことをする者は、運命が開けていく。このことは一分一厘のくるいもないものだ。)−道元禅師−
「世の中のことは、少々悪いことをしても、みつからなければ、それですんでしまうし、良いことをしたって、報われないことの方が多い。だから、人生はそこんとこを上手にわたっていくのがコツだ…」などと思っている人が、世間には案外多いものです。それに対して、善悪の因果が、まるで実験室の化学変化や物理現象のように、毛先ほどのくるいもなく起こる…などと言ってみても、とてもまともに信ずる人はいないと思われます。 しかし、仏教の根本には、このきぴしい因果観があるのです。いや、この因果の理法を抜きにしては、仏教はないと言って過言でありません。ところが、現在では、各宗の高僧と言われる人や、有名な仏教者と言われる人でも、この因果の道理を本当に信じている人が少ない。むつかしいことを言ってみても、結局、仏教を人生の感じ方や、処生術として受けとめている人が多いのは悲しいことです。 仏教の中では、仏という存在も、仏による救済も、すべて因果の法則を一歩も出ない。因果の法則を深く信ずることが、仏教を理解していく墓本になるのです。 でも、先はども述べた通り、一般には到底信じがたい因果の理法を、納得のいくように説明するのは至難のわざです。でも、これを解っていただかなくては、仏教が解っていただけないのですから、私としてもがんばらざるを得ません。少々、長々とした、りくつっぽい話になるので恐縮ですが、根気よくつきあってみてください。 昭和五十六年五月十五日の中日新聞「ニュース前線」という欄に次のような記事がのっていました。
私は、この記事を「世の中には不思議なことがあるものだ。」などというオカルトめいた興味で皆様に紹介したのではありません。実は、この占い師の手紙の中に、未来のことを、かなり正確に言い当てている事実があることに注目していただきたかったからです。未来についての予言については、何も珍らしいことではなく、明治時代に、伊藤博文の死を予占した高島呑象の例や、ケネディの悲劇的な死を数年も前から予言していたディーンディクソンという水晶玉占い師、レーガン大統領の狙撃事件を数日前に、こまかい所まで予知していた女性占い師など、その例は枚挙にいとまがありません。 間題は、彼等が、未来のことをどうして前もって、しかも、かなりくわしい点まで予知できたかということです。 戸谷早百合さんの殺人犯が捕らえられるまでには、大勢の捜査員たちが、それぞれの意志で、犯人逮捕への努力を重ねながら、実にさまざまな偶然に出あったにちがいないのです。そして、その偶然の出きごとが複雑にからみあった結果が、一月二十日の犯人逮捕という事実であるはずです。そんな日のことを、早百合さんの死さえわかっていなかった段階で、どうして予知できるのでしょう。また、未来のある時点で、一発の弾丸が命中するか、それるかなど、それこそ偶然としか言いようがないのに、ケネディは殺され、レーガンは助かると、どうして予め知ることができるのでしょう。 未来のできごとが、ここまで正確に予知できるという事実は、「未来のできごとは、現在の時点でもうかなり、くわしいところまで決定されている」と考えなければ成り立ちません。交通事故にあうのも、有名大学に合格するのも、きらいな人間と一つ屋根の下で暮らさなければならなくなるのも、みな偶然ではなく、自分の意志による結果でもない。すべて定められた運命である……と考えた方がよいのかもしれません。しかし、本当のところは、この考え方も少しまちがっていると思うのです。 中国の明の時代に、袁了凡という人がいました。この人は、豊臣秀古の朝鮮出兵のとき、賛画軍務という役で明軍に加わって、加藤清正らと戦ったこともある人です。彼は、自分の不思議な体験をもとに、その子天啓に家訓を残しました。この家訓が陰隲録と呼ばれる本で、一種の教訓書として、かなり広く人々に読まれるようになりました。この書にしるされた彼の体験というのは、次のようなものです。 了凡は幼い頃父を失いました。少年時代には官吏になろうと思っていました。その頃、中国では、官吏になるには、非常にきびしい試験があったので、彼は、一心に勉強をはじめました。ところが、母が、 「官吏の試験は、なかなか合格できるものじゃないから生活のめどが立たないよ。それより、医者になった方が人々も救えるし、自分の生計も立てられる。それにね、亡くなった父さんも、お前を医者にしたかったんだよ。」 と言うので、やむなく官吏をあきらめて、医学を学ぷようになりました。 それから、しばらくたった頃、慈雲寺というお寺に参詣して、そこで、一人の老人に出会いました。髯を胸までたらし、背も高く、気品にみちたようすでしたので、ていねいにあいさつすると、老人はだしぬけに、 「あなたは、官吏の試験に合格して、役人の道を歩く人じゃ。来年は必ず合格できるのに、どうして勉強をやめたんじゃね。」 と言うのです。びっくりしながらも、ありのままを答えると、 「わしは、雲南では孔先生と呼ばれ、邵康節の易道の極意を得たものじゃ。この道は、あなたよりほかに伝えるものがない。そこではるばる尋ねて来たというわけじや。ひとつ、私の住む所をさがしてくだされ。」 と言うのです。余りにも不思議な話に戸惑いながらも、老人を案内して家に帰り、母に話すと、母も、 「それは、ただの人ではないでしょう。大切におもてなしして、教えを受けなさい。」 と言ってくれました。そこで、老人のために一室をしつらえて、そこに逗留してもらうことにしました。それから、いろいろなことを占ってもらったのですが、百占百中で、一つとして当たらないことがありません。そこで、老人の指示に従って、官吏登用試験の準備を始めました。 ある時、老人は、その試験の結果を占ってくれました。それによると、県の試験には十四番目、その上の府の試験には七十二番目、更にその上の道の試験には九番目に合格するということでした。老人は、なお、一生のことまでも細かく占ってくれました。その中のいくつかをあげると、「試験に合格してから役人になって、その時の役職で禄米をもらうのは合計九十一石五斗になる。」「○○年に貢士に挙げられる。」「XX年に四川という所の役人になり、二年つとめてから京へ帰る。」「寿命は五十三歳の八月十四日丑の刻、家で病死する。」「一生、子どもがない。」などで、彼は半信半疑ながら、それらを全部帳面に記録して、一生の指針にしようと思いました。 ところが、それからというもの県、府、道の試験の行なわれる年月はもちろん、合格する順番まで一つとして老人の占いにはずれることがありません。もう、ただただ驚くばかりでした。でも、その中で、一つ二つ不審に思うことがありました。 孔老人の占いでは、始めて官吏に任官してから、貢士に推挙されるまでに、禄米をもらうのが、合計で九十一石五斗になるということでした。ところが合計が七十余石になった時、屠公という人が、了凡を高く買ってくれて、占いで示された時よりも前に、貢士にしようと骨析ってくれました。そこで屠公は、正当な手続きではむつかしいところを、貢士の人数の中へ加えて、推挙してくれました。この時、貢士になるまでの禄米の合計は九十一石五斗になるはずなのに、少し足りないので、おかしいなと思いました。ところが揚公という人が、屠公の推挙のしかたが不明朗だと批難したために、せっかくの話も沙汰やみになってしまいました。その後、占いで示された貢士に推挙されるはずの年月が近づいて来ても、一向そんな気配がありません。また、おかしいな…と疑問がおきました。ところが、溟公という人が、了凡が以前試験の時に書いた作文をみつけ出して、「これはすばらしい文章だ。こんな人物を貢士にしないでおく法はない。」と、県庁へ申し立ててくれたために、占いの通りに貢士になったのでした。この時、今までにもらった禄米を合計してみたら、ぴったりと九十一石五斗になったのです。 もうここまで占いが的中してくると、彼は、人間の運命というものは、すべてきまってしまっているものだと思わざるを得ませんでした。孔老人の占ってくれた自分の運命が、そのまま一生のきまりだと思い定めると、他に望むこともなくなり、胸の中はさっぱりとしたものでした。 貢士になってから都へ行き、そこで一年ばかり勤務した頃のこと、ある時、南雍という所に遊びに出かけ、そこの棲霞寺という寺に住んでいた旧友の雲谷という坊さんを訪ねました。久しぶりに会った二人は、つもる話にほとんど三日三晩、寝食を忘れて語り明かしました。話の種も、ようやく尽きたと思われる頃、雲谷和尚は了凡に尋ねました。 「大体、凡人が聖者とちがうのは、心の中がいつもふらふら動く所だ。ところが君は、三日三晩わしとこうやって向きあっていても、その間ついぞ心が動いたようすが見えない。何か信念でもあるのかね。」 と言うのです。そこで了凡が、孔という老人に一生の占いをしてもらったこと。それが一つとしてはずれないことから、人間の運命はすべてきまっていて、じたばたあがいてもしょうがないと思っていることなど話しました。それを聞くと、雲谷和尚は、 「わしは、今の今まで、君を高く買って豪傑の士だとばかり思っていたが、聞いてみれば何のことはない、やっぱり君もただの凡夫じやないか。」 と、からからと笑いました。了凡が少しむっとしながら訳を尋ねると、雲谷和尚は、静かに語り始めました。 (この時、雲谷禅師の語ったことばは、陰隲録の本文では、かなりの長文で、その内容も一種のお説教ですから、読者には、やや退屈かも知れないと思います。しかし、このところこそ、作者の袁了凡が、わが子の天啓に伝えたい中心思想だと思うので、できるだけ忠実に、そして、幾分現代風にかみくだいて書いてみます。) 「大体、人間の一生の運命は、生まれた時からきまっているというのは、君の言う通り一面の真実ではある。しかし、極めつきの善人と、極悪人は、積み重ねる善悪の業によって、自分の運命を完全に変えてしまうものなのだ。ただありきたりの普通の人間だけが、きめられた自分の遅命のままに流されていく。君は二十年このかた、その老人の占いによって自分の運命をきめつけられて、それを毛先ほども変えることができないなんて、情けない凡夫としか言いようがないよ。」 「珍しい話を聞くものだ。そんなら人間が生まれもった運命は、変えようと思えば変えることができるのかね。」 と了凡が尋ねると、雲谷和尚はことばを継いで、 「勿論だよ。もともと、人間の運命というものは、元来が自分で作ったもので、幸福も、不幸も、自分の招いた結果なのだ。聖人の作と言われる書経にも、『善いことをすれば、天はこれにさまざまな幸福を与え、悪いことをすれば、さまざまな禍をもたらす』と書いてある。また同じ書経に『天命常なし』とも書いてある。常なしとは、人間の運命は、人の善悪の行為によって変わるもので、固定されたものではないということだ。この文は、君も読んだことがあるはずじやないか。また、仏の教えにも、『功名を求めれば功名が得られ、富貴を求めれば富貴が得られ、男女を求めれば男女が得られ、長寿を求めれば長寿が得られる』とある。仏教では、うそいつわりを言うことは大罪とされているから、このことばに、まちがいはないよ。君はこれらのことについて、どう思うかね。」 「なるはど、でも私には、もう一つ合点のいかぬことがあるんだ。孟子に『人が何かを求めて、手に入れることができるのは、自分の中にあるものを求める時だ。これに反して、求めても結局無駄に終わってしまうのは、自分の中にないものを求めるからだ』というようなことが書いてある。仁義とか道徳などは、自分の中にあるものだから、求めれぱ自分のものにできるが、金や名声や身分などは、自分の外にあるものだから、自分の運命としてきまっていることでない限り、求めてみても、結局は手に入れることができないのではないかね。」 「孟子の言っていることにまちがいはないけど、君の解釈がまちがっているよ。君は、金や名声などが自分の外にあるものと思っているようだが、それらはすべて、自分の中にあるものだ。その証拠に、孟子はすぐその後で『萬物はすべて自分に備わっている』と明示しているじやないか。つまり、ありとあらゆるすべての物は、みんな自分の中にあるものなんだ。それなのに、一般の人間は、金や名声や身分が、自分の外にあるものと思いこんで、つまらぬ策を弄したり、人にへつらったり、おとしいれたりして、手に入れようとする。だから容易に手にはいらないのだ。これに対して、それらがすべて自分の内にあるものだと知って、自分の至らない点を反省し、まごころを尽し、努力を重ねていけば、きっと、自分のものにすることができる。 それにもう一つ大切なのは、塵がつもって山となることだ。わずかの善も、つもればすばらしい福徳となり、わずかの悪も、重なれぱいつか大きな禍を招く。忘れてはならないことだよ。」 了凡が、もう返すことばもなくなってだまっていると、和尚は、 「孔先生は、君の一生をどんなふうに占ってくれたのかね。」 と尋ねました。了几がありのままを答えると、和尚は更に、 「そんなら君は、進士(貢士よりもう一段上の資格)の推挙を受ける資格は取っても、進士にはならず、子もなく、わずか五十三歳で死ぬつもりでいるのかね。わしの言うことが納得できんかね。」 と間いつめました。了凡はしばらく考えてから、 「どうもね。やっぱりそんなふうに思えないよ。大体世の中のことは、才能もないくせに出世したり、たいして利日でもないのに金持ちになったりして、不公平のようだが、よくよく観察してみると、その人その人で、出世したり金持ちになってもおかしくない何かの徳を持っているものだ。たとえば、才能は余りないが、何となく憎めないところがあるとか、利口ではないが骨惜しみをしないとか、そういう長所が必ずあるよ。ところが、この私ときたら、せっかちで、めんどうなことがきらいだ。了見がせまくて、人のわずかの過ちも許すことができない。その上、目分の才智におぼれて、時々人をこげにするようなこともある。身分の上の人であろうが下の人であろうが、相手の気持ちも考えないで、言いたいことをズケズケ言う。とても出世のできるタイプじやないよ。 水清ければ魚すまずというが、私は極端にきれい好きで、少しのよごれも苦になってしょうがない。こんなところも子宝にめぐまれない理由だと思う。いつもカリカリして怒ってばかりいるし、変にプライドばかり高くて、人にへりくだったり、人のために尽してやる気になれない。それに議論好きで相手かまわずしゃべりまくるし、時々大酒は飲むし、徹夜はするしで、とても子宝にめぐまれたり、長生きのできるがらじゃない。わかっていても、どうにもならんのだよ。」 と答えると、和尚は微笑して言いました。 「なるほど、一応もっともな話だが、でも、君の場合は少しちがうと思うね。世間一般の人は十中八九まで、人の欠点にはよく気がついても、自分のことには全然気づかないでいる。だからいつまでたっても、自分の非を改めることができないのだ。ところが、君は、実によく自分の欠点を知り尽している。すばらしいことだよ。だから、何が何でも改めようという強い心さえ起こせば、すぐにでも改めることができるはずだ。そうすれぱ、貧相な君が忽ち死んで、そのかわりに福相の君が新しく誕生することになる。理屈はともかく、やってみることだよ。 それに、君の言い分は、譬えて言うと、人の家の作物は、土地がもともと肥えているから出来てあたりまえ、自分の家のは土地がやせているから、だめなのがあたりまえだと、耕しもせず肥料もやらないであきらめているようなものだよ。我身を作物にたとえると、これを培う土地は、自分をとりまく人々や天地万物に当たる。人々のためによかれと願い、天地万物を温かくはぐくむ心でする行為が、土地を耕したり肥料を施すことになる。言いかえれば、人知れずよいことをすることが、自分の運命を開いていくきめてなんだよ。」 和尚の話に耳を傾けているうちに、了凡は心の中が次第に明るく開けていくのを感じました。そして、今までとちがって、何とかして自分の運命を改善していきたいという意欲が、腹の底から湧き上ってくるのでした。 了凡は、和尚と別れると、すぐに寺の仏間へ行き、仏の前で、自分の悪い習慣や性格を心から懺悔し、改める努力を重ねることを誓いました。そして、宿坊の部屋へもどると、官吏としての自分の運命が開けることを願って三千の善行を行なって、天地に供養し、祖先に回向しようと願文をしたためました。 そんな了凡の姿を見て、雲谷和尚は、更に運命を改善する秘策を二つ教えてくれました。 雲谷和尚は、了凡にこう言ったのでした。 「君は三千の善行をしようという願を立てたようだが、まことにけっこうなことだ。それには、ここにちょうどよいものがある。“功過格”というのだ。これによって善事にはげんだらいい。必ず君の運命は変わっていくはずだ。 それから、わしの信仰する準提観音の真言を教えてあげるから、たえずお唱えしなさい。」 そう言って和尚は、どこからか、表紙に“功過格”と書いた小冊子を取り出して来て、その使い方を説明し、同時に準提陀羅尼の功徳についても、いろいろ説明してくれたのでした。
了凡は、いよいよ決心を新たにし、今までは「学海」と名のっていたのでしたが、はじめて自分がつまらぬ凡夫であったことを了(さと)り、この凡夫の境地から抜け出そうと、名を「了凡」と改めたのでした。 了凡は、雲谷和尚のもとを辞すると、白分の家へ帰り、元通りの生活にもどったのですが、心の中は全く変わってしまったように思われました。今までは何でも放任主義で、やりたい放題という感じだったのが、一つ一つの行動に慎重になり、たとえ人の見ていない所でも自分の行為に何かまちがいはなかったか、悪い心は起こさなかったかと、慎み恐れるようになりました。 こうして月日のたつうちに、世間的な欲望も少しずつ薄らぎ、それと同時に心の中に、何かおだやかなものが生まれて来て、時に人から悪口を言われたりしても、静かに受け流すだけの余裕があるようになりました。 雲谷和尚の教えを受けた翌年、京では進士になる候補者が選ばれました。孔先生の占いでは、了凡はこの時三番目に選ばれるはずでした。 ところが、今度は一番に選ばれたのです。今までは、我が身に起こるすべてが、孔老人の占いのままだったのに、ここで始めて運命が変わったのです。了凡は、和尚の言ったことに何だか手ごたえを感じました。と同時に占いに対する自分の考えが、まちがっていたのを悟りはじめました。 けれども、習い性となった自分の性癖が、そんなに一朝一夕に改められるものでもありません。正しいと思っても、やる勇気がどうしても出なかったり、人の難儀を救っても、本心からでなく、しぷしぷであったり、素面の時はよくても、酔うといいかげんになったり…というふうで、一方でせっかく善い事ができても、一方で間違いを重ねて、差引きをすると、はとんど善い事の集積が残らないという状態が続きました。それで己巳(つちのとみ)の年(隆慶三年)に三干善行の願を立てたのに、己卯(つちのとう)の年(万暦七年)までの十年もかかって、やっと念願を果たしたのでした。でもその年は公務で多忙だったので、翌、庚辰(かのえたつ)の年(万暦八年)になって、性空・慧空という二人の高僧を招き、地元の寺で自分の行 なった三千の善行の功徳を、先祖をはじめとする天地一切の霊に供養回向する法要を営み、同時に、子どもを授けてくださるようにという願文を捧げて、更に三千の善行を行なおうという誓願を立てたのでした。 ところが、その翌年、辛巳(かのえみ)の年(万暦九年)に、もう了凡の妻は妊娠しました。そして男の子が生まれたのです。結婚後十数年間も子どものなかった夫婦にとっては、まさに夢のようなできごとでした。二人は、この天から授かった子に天啓という名をつけました。 まさかと思った子どもまで授かって、積善の大切さを身に染みて感じた了凡夫婦は、それからはますます善事にはげみました。了凡は一善を行なうごとに、「功過格」に文字で事柄を書き入れるのでしたが、妻は文字を知らないので、善事一点につき一つの○を朱筆で書き入れ、多い日は十数個も○をつけるのでした。こんな努力が実って、今度は癸未(みずのとひつじ)の年(万暦十一年)の八月までの四年間に三干の善行を満たしました。 第二回目の三千善行の願を果たした了凡は、今度は、坊さん達を自宅へ招いて回向の法要をつとめました。孔老人の占いのままに流されていた彼の人生は、もうこの頃になると、それとはちがった新しい道を歩き始めていました。でも、進土にはなれないという孔老人の予言は、やはりまだ的中したままでした。 それで、法要をつとめた同じ年の九月十三日に、今度は、進士に登用されることを願って、一万の善行を行なおうという願を立てました。すると、それから四年目に、念願の進士に召し上げられ、宝抵県の知事に任命されたのです。 知事になった彼は、更に心を新たにして、『治心篇』と名づけた自紙の冊子を作りました。毎日、朝早く、妻が本庁へ赴き、この『治心篇』を給仕に渡します。給仕はそれを、庁の広問にある彼の政務を執る机の上にのせておくのです。すると、衣服を改めて出庁した了凡が、これに前日の自分のすべての善悪の行動を、事細かに書きとめ、タ方これを官舎へ持ち帰って、夜、寝る前に庭の一隅にしつらえた卓にこれをのせ、香を焚き、心をこめて天に告げるのを目課としたのでした。 そんな生活が続いたある晩のこと、妻は了凡に向って、 「私たちが以前自分の家に居た頃は、一般の人たちと生活が接していたでしょう。だから善い事をするにもわりとやさしかったわ。それで私も、あなたの願の手助けを少しはできたと思っているの。でも、今は官舎でしょう。周囲に困っているような人が住んでいないもの、ちっとも善行がはかどらないわ。あなたのお手伝いができなくて、ほんとに情けないわ。」 と言って涙ぐんでいました。了凡は、いじらしく思いながらも、返すことばがありませんでした。 ところがその夜、このことが頭にあったせいか、不思議な夢を見ました。 まっ白な衣を身にまとった、見るからに気高い人が、了凡の夢の中に現れたのです。これはきっと神様にちがいないと思った彼は、自分の一万の善行の願が、なかなか成就しないことの悩みを訴えました。すると神は、 「お前の食料の一部を滅らせよ。そうすれば、万行の願は一度に成就するぞ。」 と謎のようなことばを残すと消えてしまわれました。夢から覚めると、了凡は考えました。 「これはきっと神様のお告げにちがいない。神様のおっしやった食料と言うのは、私にとって俸禄のことだろう。私は県内の田地一畝の収穫について、その二分三厘七毛を農民に割り当てて自分の俸禄にしている。これを滅らせということかもしれない。」 そこで次の日、直ちに、二分三厘七毛を一分四厘六毛に減ずるよう県下に布告を出しました。しかし、それが果たして万善の功徳になるのかどうかは、文字通り夢のような話なので、とても不安でした。そんな析、五台山の幻余禅師という有名な坊さんが、所用で県庁を訪問されたので、自分の夢のお告げの事を話して、このことを信じていいものかどうかを尋ねました。すると禅師は、 「あなたが、自分の食料を、百里四方の宝抵県の人々に与えて養うことになるのですから、その功徳が万善に当たるのは当然なことですよ。」 と言われました。 そんな事があってから数年たって、ようやく一万の善行を夫婦の力で成しとげることができたのでした。 そこで、今度は、思いきって自分のあり金をはたき、五台山で一万人の僧を招待し、一万善の功徳を廻向する大法要をつとめました。 このようにして了凡は、孔老人の占いでは五十三歳の八月十四日丑の刻に病死するはずだったのが、その年は何事もなく過ぎ、六十九歳になっても風邪一つひかず、健康そのものの体を保っているのでした。 陰騰録の一部として書かれている了凡の半生の記録は、ここで終わっています。そして、この書の本文は、まだまだ続くのですが、要するに、彼がこの自分の体験を通して得た教訓―陰徳を積むことの必要性―を、その子天啓のために諄々と説いたのが、この陰騰録という本なのです。 これまでに述べてきたことから、少くとも二つのことが言えると思います。一つは、占いや予言が未来のことを、かなりくわしく予見できるという事実から、私たちの運命の図式は、生まれた時からはぼ決定されているということ、もう一つは、袁了凡の人生体験を通して、生まれながらの運命も、変えようとすれば変えることができ、その大きな力となるものとして、善悪の行為が考えられるということだったのです。しかし、それならどうして、人間の運命が生まれた時に、もう決定されているのでしょうか。 そこで考えられるのは、私たちの命の流れは、生まれてから死ぬまでの限られたものでなく、無限の過去から、果てしない未来に向って流れる一大生命流だということです。つまり、過去の世で集積した自分の善悪の業によって、現在の運命がきまっているのだとする仏教の説が、或る程度うなづけないでしょうか。勿論、この考え方に対する反論は、いくらでもできますし、これだけでは説明不足ですから、後で、もう少し詳しく述べてみるつもりですが、でも、人生を真剣に求めていく人なら、必ずいつかうなづく事のできる事実だと思います。 そして、この考え方に立つ時、例えば現在、人から理不尽な目にあっていても、それは決して誰のせいでもなく、自分の過去の悪業の結果だと考える…。つまり、一切の不幸や不遇が、すべて自分に責任があるとして、それに耐え、それを克服していこうとする雄々しい人生態度に人々を導きます。人々の多くは、何か面白くないことが起きると、すぐ原因を自分以外のものに求める傾向があります。親が悪い、夫が悪い、先生が悪い、社会が悪い、……。こうして、争いは争いを生み、戦いは戦いを呼んで、血みどろの修羅場と化しているのが、現在の社会です。 でも、一切の不幸や不遇が、自分のせいだ……などと考えたとしたら、果たして、私たちの生活は成り立っていくものでしょうか。ひょっとしたら、そんな馬鹿な考え方を持ったために人生が行きつまってしまい、人からもひどい目に会うようなことはないでしょうか。 もう三十年ほども前に、何かの雑誌で、一つの話を読んだことがあります。そんな昔のことですから、人の名前も、地名も、固有名詞はみんな忘れてしまいました。あらましは、大体次のような話です。 五十人ばかりの従業員をかかえる、ある会社の社長さんがありました。ところが信じていた友人の裏切りに会って、会社が倒産してしまったのです。そんな場合、普通の人だったら、この友だちをうらんでうらんで、うらみぬくでしょう。そして次には、自分にふりかかってくる火の粉をどうしたら払いのけられるか、逃げ道を必死になってさがすにちがいありません。 ところが、この社長さんはちがっていました。友人の裏切りについても、きっと、裏切りたくて裏切ったのではない、せっぱつまった、何かの事情があったにちがいないと思いました。そして、こんなことは、きびしい業界の中では、当然予想されることで、それを見抜けず、適切に対処できなかった自分の経営手腕の未熟さを反省するとともに、そのために五十人もの従業員の生活を奪ったことに心から胸を痛めました。 社長さんは、家で、奥さんと娘さんを呼んで、事情を詳しく説明し、家族にまで迷惑をかけることになったことを詫びた後で、自分の考えをうちあけました。 まず、残った家屋敷などは全部売り払って、自分たちは小さいアパートに移ることにしました。奥さんは、これからは、泥まみれになって働くんだから、宝石なんていらないと、めぼしい装身具を全部売りました。お嬢さんも、大切なピアノを売ってほしいと一言いました。 社長さんは、こうしてできた血の出るような金をもって、従業員を集めると、手をついて、みんなの生活を奪ったことを詫びました。そして、その金を、わずかではあるが更生の資金にしてくれるようにと差し出しました。 もう、その頃になると、社艮さんが身のまわりの物まで売り払っていることなど、噂がみんなの耳に伝わっていました。改めて社長さんの心の中がわかると、従業員たちは、みんな心うたれました。 お金は勿論ほしいけれど、おいそれとそれを受け取ったら、もう人間としての資格を失ってしまうようような思いになっていました。 すると、幹部の一人が重々しい空気の中から、 「社長さん。そんなお金は、とても受けとれませんよ。それより社長さん。私たちは、社長さんの下で、もっと働きたいんですよ。そのお金をもとにして、もう一度やり直そうじゃありませんか。」 そうだ、それがいい、とみんなが口々に叫ぴます。 「でも、それでは、君たちに給料が払えないよ。」 と社長さんが言うと、 「私たちはみんな、社長さんのおかげで、多少なりとも貯金がしてあります。半年ぐらいは、みんなで助け合えば何とかしのげます。とにかくやろうじゃありませんか。」 こうして、数名の脱落者はあったものの、五十人の心が、一つの火の玉になって燃えあがりました。 会社は再建され、以前にも増して隆盛の道をたどるまでに、大した月日を必要としなかったのです。 さて、みなさんは、この話を読んで、どう思われるでしょうか。 この社長さんが、友だちの裏切りに対して、いつまでも怨んでいたり、自分の身を守ることばかり考えていたとしたら、これほどあざやかな、すばらしい解決は生まれなかったにちがいありません。 悲運や災難が自分にふりかかってきた時、すべてを目分の責任とうけとめて、人々のためによかれと願って全力を尽し切る生き方に、実はほんとの救いと解決があることを、この話は教えているのです。 ところが現代の人々は、反対に、すべての責任を他に転嫁し、自分の言い分を立てることばかり考えています。 例えば、少年の非行化や校内暴力などの間題にしても、親は、先生のせいだ、友だちのせいだと言い、教師は親が悪いのだからどうにもならんと言います。マスコミはマスコミで、青少年の心を骨の髄から蝕んでいくようなびどい記事や番組を、のべつまきちらしておきながら、すべてが親や教育のせいであるかのようにさわぎ立てます。生活が豊かになった反面に、心の世界は日に日に荒廃し、このままでいったら、人類は自分たちの手で自分たちを絶滅させるような大破壊にまで行きつくしかありません。二十世紀の終わりには、人類に大破滅がやってくるという予言が、今さまざまな形で世間に流れていますが、それらは決してでたらめな話ではなく、このままでいったら、人類は本当に滅びてしまいます。 耳を傾ければ、仏の声が彼岸から聞こえてきます。我が子を殺された人に向ってさえも、仏はこう言われるのです。 「犯人を怨んではならない。お前の子どもは殺される因縁を、そしてお前は自分の子どもを殺される因縁を、それぞれの過去の業の中に持っていたのだ。無明に流されて生きている限り、誰にもどうしようもない結果なのだ。子どもの冥福と同時に、犯人のためにも祈ってあげなさい。それが悪因縁を消し、本当の救いに導いてくれるのだ。」と。 深く因果を信ずる“深信因果”こそ、私たちを本当の救いに導いてくれるのです。 今はもう故人となられましたが、“足なし禅師”という呼び名で有名になられた、小沢道雄という方があります。戦後、シベリヤに抑留され右肩を負傷して、労働ができなくなったために、零下五十五度という極寒の中を貨車で満州に残っていた野戦病院へ強制送還されました。そのため凍傷にかかり、麻酔なしで両足を切断されました。一言語に絶する苦難を経て、日本に帰ってからも、生死の境を直視せざるを得ないような運命を何度もくぐり抜けた後、最後は坊さんになって、大垣の法永寺という荒れ寺を復興し、そこで、亡くなるまで宗教活動をなさっていました。 小沢さんが、自分の半生を綴られた「本日ただ今誕生」という本は、マスコミにもとりあげられて有名になり、それが映画やテレピでドラマ化されて、多くの人々に感動を与えました。 その小沢さんに、私も一度お目にかかったことがあります。その折、こんな話をお聞きしました。 小沢さんが美濃市にある重度身体障害者収容施設「陽光園」に講演に行かれた時、寝たきりで、大小便から食事まで人の世話にならねば生きていかれないような人々を前にして、なかなか適当なことばがみつからなかったということでした。そこで、自分の半生の苦難を語られた後で、「人が生まれ変わるかどうかということは、話としてはよくわかるが、私自身確証がないからよくわからない。わかったとしても、自分が何に生まれるか見当もつかない。そんなことより私は、現在ただ今を、自分を見つめ、堀りさげ、洗っていきたい。 今回の私の人生は、両足切断、右手ブラブラで、終点まで、さわやかな笑顔でいこうと思っています。皆さまも、一日一日を精一ぱい生きていただいて、お互いに行きつけるところまで行きましょうや。神仏もきっと、それをほほえんでくださるにちがいありません。」 と言われたそうです。 私はそれを聞いて思いました。小沢師は、私など及びもつかないすばらしい人であり、このことばも、その体験なしには語れない深い味わいを持ってはいるが、でも、本当にこれで、人生に何一つ希望を持ち得ない人たちの心に灯をともすことができるだろうか。結局のところ、空しいあきらめに終わるのではないだろうか。……と。 「人が生まれ変わるかということは、私自身確証がないから、よくわからない。」と一言われるところから考えると、小沢師はどうも深信因果の人ではないように思います。「神仏もきっと、それをほほえんでくださるにちがいない。」ということばも、どことなく力が弱くて、深信神仏の人でもないようです。ですから小沢師のように、過去を背負って苦しんでいる人に対しては、「本日ただ今誕生」と、その過去を切り捨てることが、一つの救いとなることも時にはあるでしょうが、重度の身障者のように、未来に何一つ希望の持てない人々に対しては、全く無力となってしまいます。 もとより、先にも述べた通り、私は小沢師の人格や考え方について非難しているのではありません。ただ仏道というものが「本日ただ今誕生」というような一種の処生訓とは全くちがったものであることを言いたいのです。 仏道は、あくまでも「深信因果」によって行ずることであり、同時に仏法僧のご一宝を深く信じていく行でもあります。ですから、たとい重度の身障者であっても、仏道は行ずることが可能なのであり、従ってそれが根元的な救いにも必ずつながっていくのです。 身はたとい五体の自由を全く失って、人の世話になるしか生きる道はなくとも、周囲の人々に心から感謝することができます。人々のしあわせを祈ってあげることができます。神仏の慈悲を深く信ずることもできます。 そして、これらのことが何にもまして、すぐれた菩薩行となって、生死をくりかえしながら永遠に続く自己の生命の未来に、明るい展望を約束するものであることを信じていくのです。 まことに、「深信因果」こそは万人を救う力のある真実です。現在の苦難が過去の目分の悪業の結果であり、それが消滅していく姿であると諦めれば、雄々しくそれを忍受することができます。未来は死によって終わることなく、自分の心によってきまると信ずれば、現在に全力を尽すことの必要を悟ります。そして、それが、けっして観念だけの空しい絵空ごとでなく、運命を開くカとして、生活の中に実現しうるのは、前に述べた通りです。 ただ、小沢師も言われるように、私たちは、生まれる前や、死んだ後のことについては、ほとんど知ることはできないのですから、因果の法則が永遠であるためには、自己もまた永遠であるという実証がなくてはなりません。 では、自己とは一体何であるのか。このむつかしい問題については、また稿を改めて考えてみたいと思います。
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